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勃然とした怒り

2006/08/03 01:04

 

もう2カ月にわたって、ブログを更新していなかった。書き込みの手順もすっかり忘れてしまい、恥を忍んで担当者にメールして聞いてしまった。


この間に、サッカーのW杯イタリア優勝で閉幕し、決勝戦でのジダンの頭突きは世界中で物議をかもした。イタリアのサッカー界で起きたユベントスなど名門チームの買収疑惑は依然、影を投げかけ、日本ではすでにオシム新体制がスタートした。

目を野球に移すと、ソフトバンク王貞治監督が胃の異変を告白して入院、胃がんによる胃の全摘手術をうけ、8月2日に退院した。その間、ソフトバンクは頑張り、パのペナントレースを西武と争っている。しかし、気にしていた巨人のジリ貧ぶりは目を覆うばかりで、テレビも中継をためらうようになっていた。

そして、陸上100メートルの王者ガトリンのドーピングが発覚するなど、わずかな間にスポーツ界はとんでもないことが起きた。


スポーツ界の周縁にいるものとしては、書かなければならないことばかりだ。それなのに、ブログからずっと離れていたのは、ひとえに僕の性格による。ようは怠け者なのである。なにしろ、子供のときから日記をつけようと決意しても3日ともたない。夏休みの宿題は、最後の1日か2日で仕上げるというダメガキだった。

だから、このブログも正直いって復活できるかどうか、自信はなかった。


それが、勃然と書かなければと思ったのは、いうまでもない、ボクシングのWBA(世界ボクシング協会)ライトフライ級タイトルマッチの不可解な判定が原因だ。


あれはない。亀田興毅の勝ちは、あってはならない判定だった。


1回、ベネズエラのファン・ランダエダの右フックを食らってダウン。その後は一進一退だったが、有効打で勝ったのは亀田ではなくランダエダだ。亀田は左のアッパーで何度もアゴを跳ね上げられた。

頭を両手でガードし、クワガタムシのように突進した亀田は、体格差を生かしてランダエダをロープ際に追い込むが、どれほど有効打があっただろう。そして、ランダエダの攻撃にクリンチに逃げ、あまつさえ、最終ラウンドは足がふらついていた。


なのに、なぜ、判定勝ちなのか。

あれは亀田の負け、贔屓目にみても引き分けすら難しい内容ではなかったか。

思わず、怒りがこみあげた。


ホームタウン・デシジョン(地元判定)はボクシングの倣いだが、これほど露骨にあってはならない。とりわけ、亀田興毅の試合だからこそ、あってはならなかった。


ボクシングはかつて、人々の関心を集めた競技だった。とりわけ、KOの魅力は男たちを酔わせ、だからこそ、多くの作家がこの競技を作品に取り上げてもいた。


しかし、いつしかボクシングは人々の信頼を失っていく。すべては不可思議な判定が原因だったことを、僕の年代はよく覚えている。


スター性をもった亀田兄弟の登場は、久しぶりにそんなボクシング界に幸運をもたらしそうな気配があった。彼らの快進撃とともに人気も復活するかもしれなかった。それはもちろん、その昔にあった露骨な作為をなくしたところに存在する必要があった。


ところが、どうだ。

あってはならない判定が、あろうことか亀田の試合で現れた。

「亀田は12ラウンド、立っていれば‥」

そんな噂話が流れていたと聞いた。

なぜ、ボクシングはこうなんだ。僕の周囲では「やっぱりな、ボクシングは、な」という声が聞こえている。


この勝利と引き換えに、ボクシング界はとてつもなく大きなものを失った。

 

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宿沢さんと聖子会長 ①

2006/06/20 22:54

 

しみじみとした口調で、知人がいった。「シュクザワが、もしサッカーの日本代表監督だったら、ブラジル相手に何かやってくれそうな気がしたんだけどなあ」 


彼の指した「シュクザワ」とは、さる17日、急死した元ラグビー日本代表監督の宿沢広朗さんのこと。 

1989年5月28日、来日したスコットランド代表を秩父宮ラグビー場に迎え撃ち、このはるか格上の強豪チームを28-24で破って、日本のラグビーファンの溜飲を下げさせた。 

その巧みな手腕は今も語り草だが、住友銀行ロンドン駐在時代の人脈をふるに活用してスコットランド情報を収集。徹底的に分析して、相手の弱点を洗い出した。そして強気の性格そのままに平尾誠二ら選手たちを叱咤し、その気にさせて試合に収斂していった。 


知人は、そうした宿沢手腕を、サッカーの日本代表でみたかったといい、W杯ブラジル戦の指揮をとったとしたら、とんでもない作戦を編み出して、あの王者に一泡吹かせたのではないかと思いをはせたのである。 


確かに宿沢さんには、そんな雰囲気があった。 


10年以上も前だが、宿沢さんは産経新聞の運動面に、毎月1回、コラムを寄稿していた。週代わりで、サッカーの岡野俊一郎さん、大相撲の元横綱柏戸の故鏡山親方、野球の蔦文也・池田高監督(当時)と宿沢さんが、思いのたけを綴る。今思えば、贅沢なメンバーではあった。 

実は、そのコラムのタイトルこそ、『徒然に』。今回、このブログを始めるにあたり勝手に頂戴してしまったのである) 


そんな訳で、幾度か、宿沢さんに話を伺った。そのたびに、この人の頭の回転の速さや目のつけどころの非凡さに、うならされた。 

もちろん早稲田大学時代、背番号9をつけてグラウンドを縦横無尽に走り回っていたころから、宿沢さんの頭脳には定評があり、早稲田に35連勝をもたらした立役者だったから、 僕は一も二もなく、知人の話に深く共鳴していた。 


いや、それ以上に、宿沢さんはジャンルを超えた日本のリーダー足りえる人ではないかと思っていた。 

ラグビー選手として、さらに為替ディーラーとして醸成された、情報収集力と分析能力の高さ、分析を試合で生かす組織力と決断力、何よりも頂点に立ったものだけが有するカリスマ性‥。 

そこにはリーダーとしての、あるべき姿がある。 

もちろん、僕は宿沢さんを深く知らないから、見立てと現実とが合致しているのかどうか、それはわからない。ただ、宿沢さんにはそう思わせるだけの、何かがあった。 


まだ55歳。あまりにも早いその死は、いち三井住友銀行、日本ラグビー界だけではなく、日本のスポーツ界、いや社会全体に大きな損失ではなかったか。しみじみ思うのである。 

                 =この項、続く 


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正月早々、暗示されていた‥

2006/06/20 00:12

 

負けに等しいクロアチア戦の引き分けから一夜あけ、いかにブラジル戦に希望を見出すか、腐心している。

テレビほどではないが、メディアというものは、先に興味をつなげていかなければならないからだ‥。


オーストラリア戦、それに続くクロアチア戦の日本代表をみていて、あの一言はなんとも暗示的だったなと思い返している。


1月3日のことだ。まだ仕事始めの予定ではなかったが、あのデットマール・クラマー氏から親しく話を聞く機会があると知らせをうけて、赤坂にあるドイツ文化センターに出かけた。


80歳になるというのに、「日本サッカーの父」と称される小柄な老人は、すこぶる元気だ。自ら、キックなどの姿勢を示しながら、どんどん、サッカーの話にのめりこんでいく。やがて、日本代表に触れてこういったのだ。


「カマモトがいない。今の日本にはカマモトがいない。カマモトを作らなければ(世界で)通用しない」


「カマモト」とは、いうまでもなく、日本サッカー協会常務理事の釜本邦茂氏のこと。クラマー氏が手塩にかけた日本歴代最高のストライカーである。

日本代表の合宿に参加したのは京都・山城高時代。やがて早大に進み、ストライカーとして最前線に立った。動物のような嗅覚でボールとゴールの位置を的確に探り当て、女性の胴ほどもある太ももから強烈なシュートを繰り出す。そして競り合いの強さ。1968年メキシコ五輪では得点王に輝き、銅メダルの立役者となった。

当時、世界のレベルから明らかに遠い存在だった日本から、世界のベストイレブンに選ばれ、南米のプロチームなどからオファーもあった。


その後、「第2のカマモト」と呼ばれる選手は幾人も出てきたが、だれ一人、釜本という大きな存在に届きはしなかった。


前線で競り負けない強靭な足腰と、どんな姿勢からでもシュートが打てるバランスのよさ、そして何より、常にゴールを狙う獣のような感覚‥。釜本氏ひとりを例外に、所詮、農耕民族には求め得ない、狩猟民族のみが持つ資質ではないかとすら思える。


それにしても、前線でボールをもらいながらパスする相手を探したり、たとえ外してもいいから絶好のチャンスに思いきりシュートを打てないようなストライカーなど論外だ。

日本の決定力不足は、確かに4年前も指摘されていた。しかし、現実はあの頃より後退しているように思う。

クラマー氏は、だからこそ「組織をあげた素材の発掘と育成が最も大事だ」と強調したのだった。


クロアチア戦、確かにGKの川口能活はよくがんばった。しかし、GKの目立つ試合など、所詮、相手に攻め込まれた展開ではなかったか。決して、安心してみていられない内容だったことの裏返しではなかったか。

川口の活躍をかき消すようなストライカーがいれば、日本は楽に勝っていた。


改めて、正月早々に、このW杯の暗示をうけていたことに、慄然と、している。





 

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ニュルンベルクからの連想

2006/06/17 00:32

 

日本代表にとって、W杯での真価を発揮しなければならないクロアチアとの第2戦は、ドイツ南部ニュルンベルクで開かれる。


ここは、ヒトラー率いるナチスが台頭したところで知られる。ヒトラーは1933年に、「今から、そして永遠にこの街で党大会を開く」と宣言し、38年までここで党大会を開いている。そして、第2次大戦後、ナチスを裁くニュルンベルク裁判が開かれたところでもあった。


その昔、ここを訪れたとき、レニ・リーフェンシュタールのことを連想した。
というのも、彼女はこの地を足がかりに、あの
オリンピック史上最高の記録映画、36年ベルリン五輪の『オリンピア』(第1部「民族の祭典」、第2部「美の祭典」)にたどり着いたからだった。

レニは、あの記録映画で、その後の映画撮影に大きな影響を与える天才的な手法を駆使、歴史に残る仕事をしたわけだが、原点は34年のナチス党大会。その記録映画「意思の勝利」を製作したことで、飛躍をとげる。もっとも、それは同時にナチスのプロパガンダに協力したことを意味し、戦後の敵視になっていく。


レニが亡くなったのは2003年。享年101歳だった。僕がニュルンベルク近辺をうろついたころは、90台半ばでミュンヘン郊外に住んでいた。会ってもらえないかと人を介して連絡をとったが、にべもなかった。


ともあれ、そのニュルンベルク近辺にはナチスの足跡が数々残っている。今回のW杯開催に際し、ドイツは、かつてヒトラーユーゲントが行進した競技場をことさらに試合会場とし、その周辺にあるナチスのモニュメントを観客に説明する案内板を立てた。それはドイツ流の過去との向き合い方ということなのかもしれない。


閑話休題。

僕の旅は、ニュルンベルクが目的ではなかった。郊外の小さな街、ヘルツォーゲンアウラッハに行こうとしていた。

緑豊かな田園地帯を、アウラッハ川がゆったりと流れ、何の変哲もない郊外の街にしか見えないが、実はここがサッカーをはじめ、スポーツの世界には重要な土地だ。

スポーツ界の隆盛に大きな影響をあたえたダスラー家の発祥の地であり、アウラッハ川を挟んで、アディダスとプーマの本社が対峙していた土地であった。


僕はアドルフダスラーとホルスト・ダスラーの親子に興味があって、アドルフが創設したアディダス本社を訪ねた。田園地帯には不似合いな本社ビルの隣には、ダスラー家があり、今は博物館になっているが、当時はまだ準備段階のころで、倉庫のなかに貴重なシューズが置かれ、王貞治さんの現役時代のスパイクを懐かしく見せてもらったものだ。


その頃、アディダスはダスラー家との資本関係はすでになくなっており、一時の低迷から再攻勢をかける時期にあたっていた。僕らが子供の頃から慣れ親しんだ、三つ葉マークのロゴから、現在の「スーパーパフォーマンス」とよばれる三角のロゴに主体を切り替える作業が進んでおり、ごった返していた。そのねらいは新たな国際戦略にあった。


もともと、スポーツにマーケティングの概念を持ち込んだのはアドルフが、兄ルドルフと創設した「ダスラー兄弟商会」。36年、あのベルリン五輪の陸上競技で4つの金メダルを獲得したジェシー・オーエンスに無料でシューズを提供し、彼の活躍によって世界にその名を知らしめたことが最も古い、スポーツ・マーケティングの事例だとされる。ちなみに、そのオーエンスの競技者としての美を追求したのが、レニ・リーフェンシュタールに他ならない。


その後、アドルフとルドルフは第2次大戦中の齟齬から袂を分かち、ルドルフは川向こうにプーマを創設。激しく競い合う。

そして、アディダスの戦略をより先鋭化していったのがホルスト。56年のメルボルン五輪では、船着場にシューズをかかえて居座り、到着する選手に次々、提供した。新聞紙上や、折から始まったテレビ中継で「三本線のシューズ」が大写しになり、とりわけ旧ソ連では「すばらしい」ことを「アディドフォスキー」というようになったとさえ言われる。


ホルストはスポーツ用品の業界にすさまじい競争意識を持ち込み、とりわけルーツを同じくするプーマとの間で「シューズ戦争」を生む。そして、それらの戦争に勝利するため、オリンピックやサッカーのW杯をとことん利用していくわけだ。訴訟騒ぎにまでなった英国人ジャーナリスト、アンドリュー・ジェニングスの『黒い輪』が描いたのが、そうした側面であり、僕はそこから興味を持ち始めたわけだ。


ともあれ、ヘルツォーゲンアウラッハは、スポーツビジネスに関心をもつ人間にとってはなんとも興味深い土地なのである。


そして、ダスラー家の影響は離れても、アディダスやプーマは相変わらず、アドルフやホルストのDNAが残っているかのように、スポーツ・ビジネス界では目が離せない存在となっている。



いま、W杯ドイツ大会に照準を合わせたように数々のサッカー本がでているが、なかでも、『アディダスとプーマ もうひとつの代理戦争』(ランダムハウス講談社・)は抜きん出た好著だと思う。

オランダ生まれのジャーナリスト、バーバラ・スミットは丹念に資料を調べ、各所に足を運んで関係者にインタビューし、アディダス一族の興亡をきっちりと書いている。スポーツ・ビジネスに興味がある人はもちろん必見だが、それ以外の人にも興味深い一冊である。


以上、日本代表の戦場、ニュルンベルクからいろんなことを連想した。

 

 

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オージーのDNA

2006/06/14 18:49

 

 このところ、ずっと更新をサボっていたら、管理人からしかられた。その間、W杯が開幕して、オーストラリアと初戦を戦った日本代表は逆転負けした。


 オーストラリア戦の敗戦については、いろんな人が

いろいろと論評している。

 いわく、ジーコとヒディングの采配の差、選手交代時期の誤り、得点機にシュートを打てないFW、暑さ対策の失敗、酷だけれども同点にされたときのGK川口の飛び出しを批判する声も。それまで完璧だったから目だったのかもしれない。


『勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし』

  

 楽天野村克也監督の有名な語録のひとつだが、

負けたときには必ず理由があるという。おそらく、日本代表の敗因は、いろんな人が挙げたこと総てがあたっているというしかない。


 だから、いまさらなのだけれど、ちょっと思ったことを書いてみたい。

 

 オーストラリア勢は序盤から、執拗に前にでて攻め続けた。いや、守勢にたっても、攻めの姿勢を崩してはいなかった。まるで疲れを知らないかのような攻撃は、たぶん、日本選手の予想を上回っていただろう。

 そして、大きな身体を利した、あたり。それが、ボディーブローのように効いて、残り9分、日本選手の足を止めてしまったのではないか。

 もしかしたら、2002年大会の韓国チームのように、それが、ヒディング監督のチーム作りの手法なのかもしれない。が、僕はそこに

オージーDNA」を感じてしまう。

(ちなみにオージーとは、オーストラリア人を指す。彼らの楽観的な性格を、イージーゴーイングにひっかけて、『オージーゴーイング』といったりする)


 オージーのスポーツといえば、ラグビーを想像しがちだが、人気が高いのはオージーボール。簡単にいうと(厳密にいうと違うが)、ラグビーとサッカーを掛け合わせたような競技で、シーズンともなると、新聞の1面はオージーボールで占められる。

 この競技は、ともかく走る。ゴールめざして前に進む。

そして、ぶつかりあう。ラグビーももちろん、身体の接触なしには成立しないスポーツだから、その昔、シドニーに暮らし始めたころ、「オージーは何と、身体のぶつけあいが好きなのか」と、半ばあきれたものだった。


 オーストラリアは、キャプテン・クックが入港したシドニーを拠点に、あの広大な大地を開拓していく歴史をもつ。そこには先住民、アボリジニに対する迫害、虐殺という暗い過去があり、今も、この国の陰影となって残る。ただ、開拓、開墾からの視点でみれば、「乾燥大陸」と呼ばれる乾いた土地を拓くために重要視されたのは、やはり、勇気と体力。

 男たちは、時に武勇伝を語り、ひまをみつけては体力を確かめあうかのように身体をぶつけ合ったのではないか。それは、僕の単なる妄想に過ぎないかもしれないが、なぜだかそんな気がしてならない。


 この国が、ことさらに身体を鍛えることを重んじ、人口わずか2100万人ながら、世界のトップクラスのスポーツ大国であり続ける裏には、そうしたDNAが存在しているように思う。そして、そのDNAが、オージーボールやラグビー、そしてオージーサッカーを盛り立て、果敢なプレーを好み、拍手を送るのではないだろうか。


 あの日、試合の前にオーストラリア大使館を訪ねた。

12日付朝刊に、マレー・マクレーン大使に寄稿していただき、御礼をかねて、掲載紙を持参したのだ。

 旧蜂須賀公爵邸の美しい中庭には、大きなテントが張られ、2台の大スクリーンも置かれ、パーティーが始まっていた。オーストラリアゆかりの日本人も招かれて、かたや黄色、こなた青色のユニホームに身を包んで、和気藹々と、オージービーフに舌鼓をうち、大使館自慢のシラーズにグラスを重ねていた。もちろん、普段は威厳のあるマクレーン大使も、黄色のユニホームで陽気に騒いでいた。

 

 こうしたガーデンパーティーもまた、オージースタイル。毎週末、どこかでパーティーが開かれたりするが、なんといっても盛り上がるのはスポーツイベントのとき。オージーボールやラグビー、クリケットビッグゲーム、そして競馬のメルボルンカップなど、街中をあげた大騒ぎになる。これもまた、DNAのなせるわざか。

 スポーツ好きのオージーDNAに支えられて、オージースポーツは強くなる。そうした部分を日本側は軽くみてはいなかったろうか。


 

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サッカーの夢

2006/06/06 16:32

 

 もうすぐサッカーの祝祭、ワールドカップが開幕する。ずいぶん前から準備は進めていたから今更という感じではあるけれど、何となく忙しそうなふりをしている今日このごろ‥だ。

 

 サッカーというと、忘れられない1枚の写真がある。といっても、ワールドカップの名場面や、日本代表の活躍のそれではない。

 満面に笑みをたたえた男の子がサッカーボールを追いかけ、それを迷彩服の上半身を肌脱ぎになった兵士が笑いながら追いかけている、オーストラリア北部ダーウィンのタブロイト版地方紙の1面を飾った写真だ。

 

 もう、7年も前になる。

 オーストラリアの北、日本式の地図でいえば真上に位置する島国、東ティモールは当時、インドネシアに併合されていた。独立を求める人たちと、自治権を拡大してインドネシア内に留まろうとする人たちとの間で紛争が起きた。

 住民投票の結果、東ティモールの人々は分離・独立を選択したのだが、併合派武装勢力は家を焼き、略奪と発砲を繰り返し、ついに内乱状態となる。そして、オーストラリア軍を中核にした多国籍軍、東ティモール国際軍が展開して事にあたるわけだ。

 僕は当時、シドニー駐在で、併合か分離・独立か、を決める住民投票を現地のディリで取材していた。そして併合派武装勢力の発砲音を聞き、振る舞いを目の当たりにし、戦火の拡大とともに島を脱出した。

 多国籍軍が展開するときにはダーウィンにいて、避難してきた東ティモール人たちのキャンプを取材したり、オーストラリア軍艦が出航する様子をニッポン放送でリポートしたりもした。

 ちょうどその頃だ。あの写真を見たのは。

難民キャンプで暗い顔をし、不安におびえていた少年が、オーストラリア軍兵士とサッカーに打ち興じることで、あんな笑顔をみせたことに驚かされた。格好よくいえば、スポーツの力、ボールの重さを思い知らされた感じだった。


 その後、東ティモールの大統領になったシャナナ・グスマン氏も当時、オーストラリアに避難していたが、子供の頃、サッカー少年だった彼は、国が落ち着けばサッカーを国づくり、人づくりの基本にしたいと話していた。そして、いつかサッカーのチームを率いてワールドカップに出たいと夢を語っていた。


 そんな話は、実は2002年ワールドカップの際にもどこかで書いたような気がする。

 だが、今回、ドイツ大会開幕を前に、落ち着いたように見えていた東ティモールは、政情が悪化し生活不安から騒乱状態となり、グスマン大統領は非常事態を宣言、オーストラリア軍が展開する事態を迎えている。もはや、サッカーどころの話ではないだろう。

 このドイツ大会は300億人がテレビで視聴するだろうと国際サッカー連盟は予測している。だが、サッカーなど夢のまた夢の地域は決して少なくはない‥

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外務省も、案外、やるじゃん

2006/06/06 00:05

 

 中国韓国、拉致(らち)問題など、外務省のいろんな対応を見ていると、とっても外交センスなんて感じられない。まあ、それは「四方を海に囲まれていて、国境もほとんど意識していない」日本人全体に言えることなのかもしれないけれど、外務省だけになんだかなあ‥と思ってしまうわけだ。 

 でも、「これは案外やるなあ」と、思ったことがある。先ごろ行われた、イラクの空手関係者を日本に招き、自衛隊や日大、帝京大の空手部と合同練習させたスポーツ交流事業だ。 


 イラクからやってきた空手関係者は、同国空手連盟のアッバース・マハディ・サーレフ会長以下8人。いずれも、自衛隊が復興支援活動を行っている南部サマワのあるムサンナ県出身で、第4次イラク復興業務支援隊長の斎藤剛1等陸佐らと交流してきた。斎藤隊長は防衛大空手部出身で2段の実力者。「武道に打ち込むと精神的に強くなり、自信につながる」として、今年1月に130着の胴着とグローブを贈ったことが始まりだった。 

 それを縁に日本に招く話が起き、外務省の「平成18年度スポーツ交流支援事業」として実現したわけだ。 

 5月末に来日した彼らは、日大や帝京大、自衛隊体育学校で稽古し、3日には全自衛隊空手道選手権大会で交流、形を披露した。7日の離日を前に、歓送レセプションが5日夜、都内のホテルで開かれ、アッバース会長は「将来の飛躍につながる」と謝辞を述べた。 

  

 外務省のこの種の交流支援は、これが初めてではない。昨年度はイラクアフガニスタンシリアリビアの中東4カ国の柔道家を招き、講道館などで稽古、交流させた。一昨年度もイラクの柔道家を招聘した。外務省人物交流室では、「日本発祥のスポーツを通じて対日理解の促進、親日家の育成を目的にした」、事業と位置づけている。 

 スポーツを通じた交流は、思いのほか、人目をひきやすく、とりわけ関係者を若い選手とともに日本に招いたりすると、より効果的だ。今回のイラクの関係者は、38歳のアッバース会長以下、30代が2人で、20代が4人、10代2人。真剣な眼で日本の選手たちの演武を見つめていた。そうしたところに、スポーツの持つ力があるといってもいい。 

 もちろん外務省のこうした交流支援はまだ、種まきの段階に過ぎないが、巨額の金が動くODAよりも、「顔の見える」貢献に変わることもありうる。すべては継続にかかっており、ぜひとも長く続けていってもらいたい。 


 それにしても、過去3年間、日本に招いている国を改めて見てみると、国際社会のなかでは若干、問題視される国ばかり。実は、そんな国を選んでいるあたりに、「やるじゃん、外務省」という思いでニヤリとしてしまうのである。 

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ルースとボンズ

2006/06/05 22:04

 

 実は、このブログが始まる前、1本だけ原稿を書いて送ったんだけど、それが何かの手違いで掲載されていなかった。間抜けな親父記者はずっと気づいていなくて、きょう新しい原稿を書こうと思って初めて、その事実がわかって、いささか慌てて前、とりあえず、最初の文章、送りました。

        ◇

 少し前、大リーグ、サンフランシスコ・ジャイアンツのバリー・ボンズがベーブ・ルースの714本のホームラン記録を抜いたころ、ずっと、ルースのことを想っていた。いや、ルース自身ではなくて、ルースの像のことなんだけど‥。


 その像は、大リーグ、ボルティモア・オリオールズの本拠地、カムデンヤーズのスコアボードの裏手、球場見学ツアーの入り口にあった。グラブをはめた右手を腰に、左手でバットを握ったベーブは、訪れた10年ほど前、青空の下で金色に輝いていた。

 ベーブ・ルースといえば、ボストン・レッドソックスを皮切りに、その選手生活の大半をニューヨーク・ヤンキースでおくっている。なんで、オリオールズの本拠地に金色の像が建てられたのだろうか。

 愛称ベーブ、本名ジョージ・ハーマン・ルースは1895年、ドイツ系移民の子孫である父とアイルランド系の母との間に生まれたのが、ボルティモアの地。カムデンヤーズから2ブロック西に歩いたエモリー通り216番地だ。

 父は、ちょうど今はカムデンヤーズのセンターの守備位置になっているあたりで小さな酒場を営んでいた。

 生家は小さな博物館となっていて訪ねていったとき、学芸員のおじさんに笑顔で迎えてもらったことを今も覚えている。

  

 だから「ボルティモアン」としてのベーブ・ルースが、かつてのライバルだったオリオールズの本拠地に金色の像となって建っていても別に不思議ではない。ただ、理由はそれだけではないと考える。

 

 愛嬌のある顔、誰よりも遠くに美しい弧を描いてボールを飛ばす魅力。それに加えて、決して豊かではない階層の出身で、少年院で野球を覚えたような男が大統領よりも高い給料を得た、まさに「アメリカン・ドリーム」の具現者であることが、彼を、国民的ヒーローに押し上げた。さらに、亡くなったパンチョ、伊東一雄さんが言っていたことだけど、1919年に起きた、いわゆる「ブラックソックス・スキャンダル」で野球への失望感が蔓延したとき、颯爽と登場、美しいホームランで「失望感を食い止め、もう一度野球に目を向けさせたのがベーブ・ルース」だったという事実がベーブを地域を超えた存在にした。


 翻って、ボンズを考える。

 名選手ボビー・ボンズの息子で、若い頃から攻・走・守そろった選手として知られ、三振をしない選球眼と、どんな球筋でもバットの芯で捉える技術は歴代屈指と評されてきた名選手であることは言うまでもない。そんな野球の申し子が、ルースを抜いて、頂点ハンク・アーロンの755本塁打に挑むところまで上り詰めた。

普通なら、もっと大きなブームが巻き起こってもいいはずだ。なのに、海の向こうから聞こえてくるのは、42歳の彼を非難し、現役引退を待ちわびるような雰囲気ばかり。715本塁打の記念のボールを拾った野球ファンなど、はっきりと「ボンズは嫌いだ」と言ってのける始末。


 

理由の大半はステロイド(筋肉増強剤)使用疑惑に起因しているだろう。

大リーグのドーピング(禁止薬物使用)への対応は遅れた。その間、大リーガーにステロイドが蔓延した。だから、ボンズだけがステロイドを使用していたわけではない。そこから、ボンズだけを責めるのは酷だと擁護する声もあがる。

しかし、総じてボンズへの視線は冷たいのだ。ステロイド疑惑への反応の鈍さ、大リーグが遅まきながらドーピング対策に乗り出した後も使用し続けた疑い、法廷での証言に偽証の可能性‥。何より、ボンズがこれらに何の明快な答えを持ちえていないことに、野球ファンが怒っている。

いろんな事象から、アメリカの一般人は、極めて単純な明快さを好むように思う。AかBか、YESかNOか。そうした国民性に、ボンズの言動が合致していないと思うのだ。それはルースがたとえ移民の子孫であっても白人で、ボンズが黒人だからということとは少し違う気がする。


たぶん、ボンズの像が本拠地以外で建てられるなどということはあるまい。いや、本拠地のサンフランシスコだって、さてどうだろう。ま、もしボンズの銅像が建てられたとしても、僕は足を運ぶことはない。


 

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